第二話 <No.1>



当時においても,洋上をフリーに制限なくフライトプランのルートを設定できたのは太平洋上のみ で,同じ洋上でもマニラやホンコンに飛ぶ時はもうすでに航空路が設定されていて自由に飛行する ことはできなかった.当時の航空路も多少名称などの変更はあったが現在のものとほとんど変わり はない.

当時の運航管理者は出勤すると同時に気象室をおとずれて,その日の勤務が始まるのが 常であった.今でも,そうあるべきなのだが,諸般の事情によってなかなかそれができなくなって いる.つまり,いまでは多くの場合,たとえば成田や関空などでは気象台(乃至は気象室)は空港内 の行政機関が集まっている管理棟ビルにあり,航空会社の運航管理室とは距離的に離れてしまって, なかなか簡単に訪れる訳にはいかなくなっている.

昔の羽田ではターミナルビルの中に気象室と航空局の航務課が隣り合せにあり,その周囲に 各航空会社の運航管理室があり,常にこの三者で顔をつきあわせながら,それぞれの業務の遂行 が出来たのだが,現在のように離ればなれになっていては,そのような密接な日常的な接触は 不可能なものになっている.それによって失われたものを補充するために現在は電算機により 処理された情報や画像を運航管理室にいながらにしてディスプレイの上で見ることができるの だが,日常的な人間同士の接触により得られたかっての情報は,とても今のコンピュータを 通して得られるものではない.たとえば,明日の朝は霧がでるよ...といった予報でも, その時の予報官の口振りや態度からどの程度の自信をもって出した予報なのか昔は判断できた ものだが,今では予報は単にディスプレイ上の数字の羅列にしかすぎないものになっている.

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