それはともかくとして,運航管理者も管制官同様に運輸大臣発行の免許を取得しなければ 仕事につく事はできない.ところが私が運航管理者になった頃はまだ日本の航空行政が 戦後スタートして間もなくだったので,当時は運輸大臣の発行するライセンスを取得 するより 米国のFAA が発行するライセンスを取得する方が一般的であった,つまり, そのほうが,より多くのメシの種になるという状況が存在した.平たく言うと FAAの ライセンスを取得して外国系の航空会社に運航管理者として就職した方が当時としては 破格の待遇を得る事が出来たのだ.当時と今では 待遇に限らず,いろいろな面で大きな 違いがあるが,当時も今現在も終始一貫変わらないのは 運航管理者がよってたつ事の できる航空法 第77条の条文である.いわく,
[定期航空運送事業の用に供する航空機は,その機長が,第102条第1項の定期航空運送 事業者の置く運航管理者の承認を受けなければ,出発し,又はその飛行計画を変更しては ならない]勿論,これだけの機長と同様の権限が付与されている業務のライセンスを取得するのは 容易な事ではない.航空機の構造,性能などは言うに及ばず その運航,航空保安施設, 通信,航空気象,航法,航空法規の多岐にわたる試験をパスしなければライセンスを 取得することはできない.
条文が変わらない状況は必ずしも仕事の内容が変わらないという事ではない.当時と現在 の仕事の違いは コンピューター というこの一語で説明がつく.当時コンピューターと いえば DALTON 社製か ARISTO 社製の航法計算盤 (Navigation Computer)を意味して いた.スライドする板がついた計算盤である.今現在もっとも使われていると思われる Jeppesen 社製の CR タイプ (通称,おさら)は当時は無かったか,一般的ではなかった. しかし,今はコンピューターといえば電算機であるのは言うまでもない.
そして当然ながら電算機のない当時の運航管理者の一番肝心な仕事は飛行計画書の作成で あった.現在の如く航空機の性能,航空路,電波保安施設,気象データ等々の飛行計画に 必要な,ほとんど全てのデータが電算機に保存され,日夜更新されていて飛行計画書が 必要なときにはキーボードなどから日付けと便名を入れるだけで即座にカタカタとプリンター が飛行計画書を吐き出すという状況ではなかったので,飛行計画をつくるのは大変な時間と 頭を使う仕事であった.逆にまた,それ故にその手作りの飛行計画で飛んだ機が計画どうり に飛び到着時間がプランどうりの時の喜びも大きなものだった.